皆さんの体験談

旦那がASDかどうかは、最終的に関係無くなる / 雨音さん編

旦那のことを考えるうちにふと思った。

旦那がASDかどうかは、最終的に関係無くなる気がしてる。

大事なのは自分と向き合うことが出来るかどうか。

誰だって自分の行動に納得がいかなきゃ、受け入れられないし行動し辛い。自分をどう納得させるかがポイントかも。

誰かのために〜
誰かのせいで〜

では無く、自分がそうしたいからが重要。

相手のせいで、相手のために、とか言いながら、本当は自分がそうしたくて、させたくて出た言動である事から目を逸らす…

そんなことしてたら、いつまで経っても本当の自分には気づけない。自分がしたいから行動したら、人のせいには出来ない。

する必要も無い。

ただ、嫌なことはどう考えたって嫌でもいいとも思う。無理に納得させなくても。ここの線引きというか、さじ加減が難しい。そしてこんな事私だけが考えてたってなぁ…と思う自分もある。

いや、考えたいから考えるんだ。言動の軸を自分に置くってのはそういう事か。って思った。

自分はどうしたいか。

なんだか少し何かのしっぽを掴んだ気分。

もう逃したくない。

やっと私は私を取り戻せそうなんだ。

スクールカウンセラーさんと話したり、情報収集するうち、「まず」私が気づいたのは、旦那の言動を恐れたり、気にしたりしてるのは、自分の心だってこと。自分を振り返る必要があるのは、このためなんじゃないかと思った。

自分はどんなふうに育って、過去の経験からどんな傷を心に抱えているのか。

それによって、外部からの言動を受けた時、それに自分がどういう傾向の意味づけをしてるのか知ること。

親に構われない子供。いじめ。

いつの間にか私は、相手の要求を受け入れる事で、自分の価値を見出していた。ひどい時はみずからその要求のハードルを上げて。嫌なこと、苦手でうまく出来ない事でも、要求する相手を好きであればあるほど、私はNOといえなかった。

嫌われるのが怖くて。

「私なんかを必要としてくれる。私なんかと一緒に居てくれる」歪んでいたのは、私が自分を自分で貶める考え方だった。

ありのままの自分を、自分が肯定出来ず、無理をしてた。出来ない自分じゃ嫌われると。一生懸命相手の顔色を伺っていた。出来ないからといって、嫌うかどうかは相手次第なのに。相手がどう思うかなんて、自分ではどうにも出来ない事なのに。

つまり、どれだけ相手の顔色を伺って行動しようと無意味。ましてや無理をして相手の要求をのんでも、自分を偽って苦しくなるだけ。そう考えるようになれた。

相手がありのままの自分を受け入れるかどうかは判らない。

でもまず、自分がありのままの自分を受け入れる。

外へ向けては、どこかに「嫌われる勇気」をもって、自分を偽らず接する。そしてあえて相手の要求をのむとき、それは「自分も」したかったから・納得・妥協出来たから〜という自覚を持つこと。それが「対等な付き合い」というものじゃないだろうか?って思うようになった。

最近の雨音は変わったと旦那は言う。

話が噛み合わなくなったと。でも長女には、明るく表情や感情もわかりやすくなったと言われた。

自分で作った自分の檻に気づき、自分の力で脱出したと思ってる。

多分もう私はカサンドラじゃ無いと思う。