アメリカでの学び

アメリカには同調圧力が「ない」理由

私はアメリカ生活が心地よく感じる理由の一つに「同調圧力を感じない」がある。同調は同じ人種にむけて圧力がかかりやすいことから、様々な人種で形成された社会にいると、私が違和感を抱いていた日本の圧力はない。

アメリカには同調圧力が「ない」という意味ではない。でも、その同調に対抗する力も強くあるから、社会が一つの方向に極端に偏らない。違いの数だけ選択肢が増えていく。これは日本にはないバランス感覚だと思う。

生徒も親も先生も声を上げる

留学生として来た初めの数年間は、周囲は私をサポートが必要な外国人として接していたと思う。困り事が多すぎたので気にかけてくれた生徒は多かったが、それ以外はそっと距離を置かれ、自分からも輪にあまり入っていけなかった。

それでも、アメリカ人同士でもみんなに合わせる空気はある、と感じたことはあった。でも合わせない生徒達もいるし、別の意見を持っている生徒達もいるから、いい意味でクラスが一つになることはなかった。これは、集団無視や多数派に流されて誰も助けないなど、日本の学校の独特ないじめが発生しない理由につながると感じた。

それは教育者に対しても同じだった。生徒も親も先生も声を上げるので、理不尽なことでも先生が決めたから生徒が合わせる、理不尽なことでも学校が決めたから先生が合わせる、という同調圧力はなかった。時代に合わせてみんなでより良い教育に変化させていた。日本の学校でも経験したかったな、しみじみ思った。

アメリカ生活3年が過ぎた頃から、人々が違いを認め合い上手に共存する社会構造が見えてきて、5年が過ぎた頃からようやくその中に立てた実感がした。

同調圧力が強い社会ほど広まらないメンタルヘルスケア

私の友達や同僚には外国人が多く、それぞれの国の同調圧力について意見を交わしたことがある。母国の常識や政治に疑問を持ち、自分のため子どもの将来を考えてアメリカに来る選択をした人達。服装/心の性別/職業/宗教/結婚/言論 の自由、学びは学校でなくてもよい選択、女性の権利など、母国の「普通はこうであるべき」から外れて非難されるために叶わなかった自由や選択肢が、アメリカにはある。

友達の一人は中東出身で、女性の権利についての活動をしている。母国では性別を理由に教育を受けられない子どもが大勢いて、それが女性のあり方だと信じる風潮が強く残っているそう。社会改善のためにSNSでも声を上げているが、母国の人達は嘲笑したり完璧に否定する人が多いとのこと。

海外から発信していることも悪く思われるそう。理由は、母国の政府が報道機関やメディアに圧力をかけて情報操作しているため、アメリカ含む他国にネガティブな印象を持たせているから。海外への興味を失わせて、母国を出る人を抑えていると言っていた。日本含め、どの国でもあることだと思った。

私はその国で女性から自由を奪っているのは男性側だと思っていた。ニュースで見かける時はいつも、公共で女性達が権利を訴えて男性達と対立する姿が映し出されていたから。でも同調圧力をかける者には女性が多いことも、この時に友達から聞かされ初めて知った。

同じ人種だから、同じ性別だから、という共通点があれば、自分とは違う考えをして、自分にはない生き方をする他人のことが、おかしいと思ってしまうのだろうか。自分もそう生きたい切望ではないのか。ただ私の経験から、人種も性別も異なる夫との関係で、家族という形になると、同じを押しつけあっていた。夫婦や親子関係など、身近な人であればあるほど自分の期待と理想をどう扱うかが課題になると感じた。

自分の意に反して、他人と同じように考え行動させられる強制は苦しい。でも他人が自分に合わせるまで怒り悲しみ続けて支配と依存をする人の方が、苦しい生き方だと思う。他人の言動に満足できないと満たされない状態になってしまう無意識が、同調圧力の怖さ。

他人の生き方がどうしても気になって、批判や否定をせずにはいられない人へのメンタルヘルスケアは大切だが、同調圧力が強い社会ほど広まらないのだと思う。

人々に違いがあって当たり前の環境だと同じが嬉しい

私自身は、同調に流されず他人の目を気にしない姿勢も必要とは思うけれど、多数派に合わせないと打たれる社会からは出て、自分らしさが大切にされる社会で生きる方を選ぶ。広いアメリカの中でも、様々な人種で形成されている都市で、アジア文化もある方が暮らしやすい。

特に日本人とのつながりは大事にしている。海外にいようと自分はやっぱり日本育ちの日本人と感じることばかりだし、波長が合う人も日本人か日系人が多い。人々が同じであることが当たり前の環境だと違いが気になり、人々に違いがあって当たり前の環境だと同じが嬉しいのだと思う。

一つの文化を持つ同じ人種だけの社会では、他人と自分の生き方を比べて正否をつけず、他人との距離を保って違いを尊重するまでに長い時間がかかると思うけれど、必ず実現されていくと信じている。