日本の教育と心の健康

悲劇のカサンドラを書かせたがるメディアの負の連鎖

カサンドラ症候群について執筆をWebメディアにお願いされるたびに、すでにシナリオが出来上がっていて疑問を抱いてきた。

送られてきた事細かな質問に上から順番に答えていけば、夫がアスペルガー→普通じゃない夫のハチャメチャな特性紹介→夫のせいで夫婦関係が破綻した過去→夫をサポートするしっかり者で寛大な妻→それでも日々辛いからみんなで苦しみを共感していきましょう、と。こういうメディアの負の連鎖が苦しみを助長させてるんでしょ。人々の心を考えた発信ってなんだろうと考えさせられる。

だから自分”達”の2人の視点から書きたい内容を伝えるんだけど、合意したことがないから受けたことがない。それもおかしな話。

なぜ夫と妻を対立させたいのか

日本でも発達障害の記事は増えてきて「発達障害の当事者」や「発達障害の子どもを育てる親」の話から学び理解を深めることができる。幸せや苦労に共感もできるだろう。でもカテゴリーが「発達障害の夫を持つ妻」になると一気にドロドロ感を求められることに気づく。

いかにもな夫ネタを提供して、悲しみや怒りの共感をわざと作りたくない。社会に差別や偏見を落としたくない。同じく苦しんでいなければ理解し合えないような輪を作りたくない。そこに私の愛する家族を絶対に巻き込ませたくない。

こういった内容はSNSやネット社会で一定の需要があるらしいが、現実社会ではそんな内容を中心に求めてる人なんて少ないと思う。夫婦関係を改善したいし、自分やパートナーや子供それぞれが生きやすい家庭を育んでいきたいはず。

得られなかった親の愛情をパートナーに求めてしまう

世界でも日本だけがアスペルガーとペアにして流行させているカサンドラ。

しかも大昔のギリシャ神話を軸として、現代の心理学や個々の生育歴が抜けている日本版に変えられたカサンドラの概念だと、幼少期に親との愛着がうまく形成されなかった人に深く大きく響き続けてしまう。

自分の気持ちを分かってほしい、自分が言わなくても察してほしい、自分が望む反応をしてほしい、など。それらが満たされないと大きな悲しみや孤独を感じたり、不満を抱えたり、ヒステリーを起こしてしまう。

だからパートナーがアスペルガーでもそうでなくても、一緒にいても離れても、孤独や不安や怒りを感じ続けてしまう。カサンドラと自己診断するのがよくないのはそういう理由から。

そもそも日本はネット上で様々な診断表が出回っているのが問題。病名は自分の好みや判断で選ぶものではない。

自分を大切にすることを選択できる

でも事実、パートナーのひどい言動に深く傷ついている人はいると思う。でもそこまで人の心をズタズタにし続けるひどい人だったら、アスペルガーの特性ではない。先天的な特性ではなく心の成長の段階で身についたこと。

そして夫婦2人、出会った時から一緒に築いてきた関係性。ここはなかなか変われないけれど、変わらないことに怒りをぶつけ続けるのは違う。経験上、そういう自分を変えていくのがすごく難しい。

私達が書かない代わりに「アスペルガー夫と離婚した女性」の紹介を頼まれた事もある。はああ??と呆れた。求めている人物像はやはりそこだった。

私はフォロワーさんの中に離婚した人はいて、気軽にメッセージを交わす人も何人かいる。でもご夫婦でたくさん試行錯誤して、自分に向き合い続けて頑張って、たくさん考えてたくさん行動して出した家族の形。離婚をそんな風に扱うなんてひどい。

私自身、カサンドラ症候群について日本語で書かれている書籍やメディアに混乱させられた過去を持つ。学べば学ぶほど、信じれば信じるほど、心の健康と夫婦関係が悪化していった。

夫婦2人のことなのに、パートナーの現在の特性のみ、事細かく焦点が当てられているのはおかしいと疑問を持ち始めた。なぜその言動までもが「障害」になってしまうのか、なぜ他人との違いを不満や苦しみばかりで表現するのか、共感できない例がたくさんあった。

特に疑問を抱いたのが、親目線で子供の教育を考えた時。社会が発達障害の大人を批判する方向なら、発達障害の子供はどうなるのか。自分の子供が発達障害だったら、生まれつきの特性を否定し続ける躾をするはずがないし、クラスに発達障害の子がいたら、自分の子供にその子を嫌な目で見させてしまう知識を教えるはずがない。父親の発達障害についても、母親として子供に父親のことを悪く吹き込みたくない。あたたかな夫婦関係を築き直し、その姿を子供に見せていきたい。

発達障害やメンタルヘルスについて正しく学び始めたのは、英語のものにシフトしてから。そしてカウンセリンング。自分の心に取り込む内容を選ぶことは、自分を大切にすること。

そんな経験から、Blogに「皆さんの体験談」を作りたいと思うようになった。夫婦間に生じる問題の原因に向き合い、自分らしい生き方を模索する人の声が、届く人の心に届いてほしいと思ってます。